〜熊工100周年記念誌より〜
 本校陸上部・駅伝部の頑張りは周知の通りである。輝く熊工運動部の中で、唯一全国大会(インターハイ)での総合優勝経験を有し、OB数も600余名を数え、その中から幾多の名選手を輩出し、熊工の歴史の中で燦然と輝くものである。

創部
 ところで、いつ創部がなされたかは明確ではないが、県内の学校に陸上競技部なるものができたのは、資料(「熊本の体力」熊日出版)によると大正10年前後となっている。それで、本校陸上部もその少し後ぐらいではないかと思われる。
 しかしその資料には、大正6年に丸山径人選手(当時市立工業・大6・木工科卒)の短距離での活躍 および昭和2年に後藤美壽雄選手(昭3・織卒)(中学日本記録保持者)三段跳での活躍が記されている。昭和10年代になると、吉原選手(元巨人軍・昭13・機卒)や、丸尾選手(熊エプロ野球第1号)が100m、走り高跳びに駆り出されて、県大会で活躍していたとのことである。(冨永先生談話)
昭和15年には、第11回明治神宮大会に冨永先生(当時玉名中勤務)が玉名中の選手2名と小林一生選手(昭15・建卒)を引率(熊工からの引率なし)し、10000mに出場させた経緯があられるとのことである。
 昭和18年、第14回明治神宮国民練成大会県予選(10/8・水前寺)において、手榴弾投げで謝乗乾選手(昭20・機卒)が(67m65)第1位、学校戦技錬成大会(12/2-3・水前寺)の陸上競技で熊工の団体優勝がなされている。
 昭和25年には、第1回の全国高校駅伝大会が開催され、県大会で見事優勝、全国大会へと駒をすすめ、1時間53分31秒(当時記距離32kmで22位となり、その翌年も県予選で優勝、全国大会では1時間48分25秒のタイムで11位となっている。
 そして、熊工陸上部が全国に名を連ねるようになったのは、昭和29年、前記の冨永勝美先生(昭和29年から50年迄勤務)が鹿本高校から赴任されてからである。熱血指導とスパルタ練習から、その効果はすぐさまあらわれ、2年後の昭和31年第9回高知インターハイでは、男子総合優勝候補と注目されるようにまでなった。しかし、残念にも平田貞夫選手(昭33年・採卒)の1500m(4分11秒0)第3泣と河添義澄選手(昭32・木工卒)のハンマー投(52m40)第3位の2名の入賞のみに終わっている。だが、その屈辱を晴らすかのごとく、翌年の昭和32年富山インターハイでは男子総合優勝、フィールド優勝がなされているのである。

熊工の第一期黄金時代
 済々黌のあとには、冨永勝美先生の黄金時代を迎えた。その1回目の“全国への挑戦”は31年に高知で開かれた第9回インターハイ。このときは中距離の平田貞夫、ハンマー投げの河添義澄を軸として優勝をねらったのだが、平田が1500mのレース途中で負傷して3位、800mは棄権、河添も3位に入っただけにとどまった。 翌32年の第10回インターハイ陸上は、8/3-4富山市で開催。その直前の7月26日、熊本地方は戦後二度目の大水害にあったため、本県の選手の一部には出場できないものもあり、全国的な同情と注目を集めていた。 男子の優勝候補筆頭は、投てき三種目と中距離、棒高に豊富な得点源を持つ熊本工。しかもそのメンバーは、ファイター部長で有名な富永と投てきコーチを買って出た西田親に徹底的に鍛え上げられた“根性ある選手”がそろっていた。周囲がどんなに騒ごうと「ぼくらはベスト記録さえ出せばよい」という自信家ばかりだ。
 初日は、まず砲丸投の熊川保利が14m77の自己最高をマークして2位の表彰合に上がり、1500mの平田貞夫も会心のレースで4分3秒0のベスト・タイムを出して3位入賞を果たした。この日の得点は砲丸投1位、やり投2位の早大学院が11点でリード、熊工が9点で続いた。しかし早大学院の翌日の出場は円盤投だけ。逆に熊工の方は2日目に大量点を取ろうという布陣だ。その勝利は、初日ですでに確定的だった。 果たして、2日目の“冨永一門”の進撃は、まさに無人の野を行く勢いだった。まず、前日の殊勲者熊川が円盤投げで2位(42m79)、さらにハンマー投げは島本日支男が54m57で3位、熊川も53m59で5位にはいり3種目めの入賞という大活躍。この投てき陣の健闘に負けてはならじと、800mの平田が2分0秒9で4位におどり込む,熊工の得点はすでに23点となり、待望の優勝が決まった。しかし熊工勢は少しも気迫をゆるめない、大会のしんがりをうけたまわった棒高跳で、柏原松男が予想もしなかった優勝(3m70)を遂げて、その輝く総合優勝に花を添えたのである。
 たそがれの中の閉会式で、選手たちは宿望の秩父富賜杯を手にした部長の富永は最優秀指導者賞を受けた。そして生徒たちは「冨永先生のおかげです」と感激にむせび、冨永はまた「全員がヒノキ舞台で自己ベストを出すという至難事をやり遂げたこと。それに校長(小島嘉七郎)の深い理解、西田氏の助力のおかげですと報道陣に語ったものだった。 (「熊本の体力」より)
 そして、その年の第12回静岡国体で平田選手が1500mで第4位、第10回全国高校駅伝において、1区田中友秀・2区伊地知隆・3区吉井勝義・4区緒方安一・5区山崎智弘・6区平田貞夫・7区前田哲夫のオーダーで2時間17分37秒、第9位入賞を果たしている。昭和35年第13回神戸インターハイでは、富田康男選手がやり投(57m42)で第3位、笠原義種選手がハンマー技・第4位、800mリレー坂田・笠原・川村・久野では、南九州大会で出した高校新記録(1分31秒8)で試合に臨み優勝を狙ったがオーバーゾーンで失格となり夢となっている。その年熊本で第15回国体が開催され、陸上競技は天皇杯第4位、皇后杯第5位となり、その本県強化部長の任に冨永先生があたられている。
 翌、昭和36年静岡インターハイにおいて、松川浩選手が200m・第6位、400m・第4位、第16回秋田国体において、松川選手が400m・第3位、ハンマー投で宮田隆治が第5位になっている。昭和40年、大分で行われたインターハイで初めて行われた4×400mリレーで、中川雄二・井上公貴・坂元寛・梅村正信のメンバーで(3分28秒3)第3位となっている。余談ではあるが、筆者も1年生で補欠選手として大会に参加、予選、準決を1位で楽々と通過、最終日の決勝、優勝間違いなしと思われたが、中川選手が宿舎でけつまずき爪を剥ぐというアクシデントに遭い、それでも必死の走りで入賞を果たした感動が、今でも忘れられないものである。後にも先にも、本校の全国大会でのリレーの入賞はこれのみのようである。参考までに、現在ではこの種目、3分16秒を切らないと予選通過がままならない状況である。(その後、拾雄監督のもと平成11年度岩手インターハイで4×400Rで2位入賞を果たしている。3分12秒12県高校記録)そして、昭和43年4月に、その後の日本女手陸上界の投擲の女王の名を欲しいままにした、林(現、立山)香代子選手が入学、その年の広島インターハイで、1年生ながら砲丸投(13m22)第1位、円盤投(33m12)第4位で2種目入賞、女子総合第5位、フィールド優勝。昭和44年の群馬インターハイで砲丸投第1位(13m72)、円盤投第1位(37m44)2種目優勝、女子総合第3位、女子フィールド優勝、西田広選手が男子やり投(60m76)第6位に入賞、長崎で行われた第24回国体砲丸投で林選手が(13m58)で優勝を飾っている。
 翌年の昭和45年の和歌山インターハイでも、砲丸投第1位(13m95)、円盤投第1位(42m32)の両種目優勝を成し遂げ、砲丸投に至っては高校3年間負け知らずで、その後中京大を経て、熊本県の教員となり、その間日本選手権砲丸投10連覇、オリンピックの出場はならなかったが、1974年第7回アジア大会(テヘラン)で砲丸役第3位(15m05大会新)、1987年にバンコクで行われた第8回大会で砲丸投(15m59回)第3位、円盤投(43m88)第5位の2種目入賞、その他歴史に残る実績を残している。 林選手が3年次に、顧問の冨永先生の将来を見据えた考えから、陸上部から駅伝部を分離、その初代の顧問に当時講師として勤務されていた奥山先生がなられており、これも何かの縁ではないかと思われる。
 そして、2年後昭和47年、第23回全国高校駅伝大会において、1区 脇付哲也・2区 水田順二・3区 岩崎冬樹・4区 広瀬哲志・5区 大平和久・6区 田上忠晴・7区 向山強のメンバーで2時間14分07秒のタイムで第3位となっている。しかし、その後しばらく低迷期が続き全国クラスの選手も出ず、なりをひそめた感じであった。

伝統復活
 昭和54年久々に、植松誠選手が、県総体、南九州大会で長距離3冠王となり第32回滋賀インターハイで、800m第6位(1分56秒3)、1500m(3分59秒9)第2位に入賞。翌昭和55年三重県のインターハイ3段跳で、梅本勝則選手が第4位(14m49)となっている。また冬の全国高校駅伝大会で西本一也選手が花の1区を(30分18秒)第1位で駆け抜けたのは周知の通りである。
 その後再び全国から遠のき、昭和63年京都国体少年B5000mで前田重信選手が大会新記録(14分45秒84)で優勝した。 その後着々と実力をアップ、平成2年には、前記の前田選手が宮城のインターハイで5000m (14分40秒83)第5位でインターハイ久々の入賞、その年の第40回全国高校駅伝大会において、―区前田重信・2区 高瀬広志・3区 緒方有相・4区米田光男・5区山下直樹・6区和田修策・7区本田 忠のメンバーで(2時間07分49秒)第5位。平成3年には、国体において尾方挙志選手が、少年B5000m(14分51秒54)で第4位。平成4年度国体で牛島裕章選手が少年B3000m(8分30秒60)で優勝、3000m障害で園本哲郎選手が9分10秒26で第4位。平成5年の秋には、全九州新人対抗選手権大会の男子総合において、初優勝をかざった。平成6年には、24年ぶりに全国総体南九州地区子選大会で男子総合優勝、名古屋国体においては、宮本由紀選手が女子やり投(48m24で第2位、400mリレーの熊本県チームの第4走として参加した田中友一選手が頑張り6位入賞を果たした。翌平成7年には、松本大地選手が、鳥取インターハイ400mH(52秒91)第3位、秋の福島国体400mHにおいて、県高校新記録(51秒84)で第3位と活躍。平成8年山梨インターハイでは、1500mで須藤大樹選手が(3分51秒4)第6位、その余勢をかって、第46回全国高校駅伝大会で、1区坂本直之・2区吉住賢一・3区椎葉弘幸・4区須藤大樹・5区中原隆浩・6区沖田祐一《区間賞》・7区水上祐二のメンバーで(2時間06分53秒)第3位の活躍は記憶に新しいところである。
 平成9年の本年は、京都インターハイで川崎正法選手が砲丸投(16m93)第2位、大阪で行われた、なみはや国体で砲丸投(15m12)第6位、9月山形で行われた日本ジュニア選手権大会で伊藤佳代選手が100mH(14秒60)第7位となり第2の黄全期を迎えつつ100周年の今年に期待を持たせながら、更なる110周年は大いに楽しみにしていただきたい。以上、紙面の都合で全国大会入賞者のみの紹介にとどめた。
          陸上部顧問 拾雄正光(現在、熊本工業高校 校長)